共同幻想論 感想文 その1

記述を解釈的なものと創造的なものに分けるならこの書は後者になる。吉本の記述は多いが後者のものはそう多くない。もちろんその価値は量的なもので計られるものではない。

難解である。理由の一つは、当然創造的なものであっても過去の成果を踏まえていることが要求されるが、それを省略していること。一つは、その思考法が一般的な馴染みやすさを備えていないこと。一つは記述の順序が同様に馴染みやすさをもっといないこと。もちろんこれらは相互に関連している。

過去の成果はヘーゲル、マルクスにあるのは間違いなく、その思考法もこれによっている。例えば本書ではフロイトが心理的なものから制度的なものを推論することを拒否していること、一般的にはなぜ拒否されるのか分からない。あるいは逆立ち、疎外、矛盾、移行という言葉。とはいえ本書がどこまでもそれを徹底化しているかには疑問があるがそれは示せるなら示そう。

幻想という用語
幻想という、そして共同幻想は上部構造と同じだという。観念と同じとも言う。上部構造という言葉を使いたくないのはわかるとして、なぜ共同観念ではまずいのか。観念と言ってしまえば、それはすでに対象化されているという過程を表しているが、幻想というからにはまだそこまで至っていない、という視点があるだろう。少なくとも注意すべきは、幻想と言ったからといってそれが、本当は存在しないものだとか、嘘のものだとかに解釈されてはならず、あくまでもそこにあり、人間に決定的なものというふうに理解されなければならないこと。あとはこれら幻想は、それ自体が主体となって展開するものとして読みたい。それが受け継いだ方法論であろうから、だから記述に矛盾があるように見えても、それは段階の違いをよく見なければならない。三つ巴の幻想が相互に関連しながら展開として読む。では幻想は我を忘れるか。全く低い状態に逆戻りするか。ないと読みたい。幻想は自らの成果を自然に焼き付けるとしたい。

下部構造と切り離せるか
唯物論をタダ物論と見る見方になればそれは未開の自然しかない。この未開の自然から動物が発生し動物から人間が発生した、これが一般的な見方である。吉本はこの見方をとってない。あくまで幻想の論だ。しかし有名なミツバチの話、人間はミツバチが素をつくるのとは違って、家を作る前に設計図をもっている、というマルクスの話。つまり人間がつくった家はモノではなく精神である。ではタダ物論では唯物論とはなにか。

学的意義
民俗学、民族学は吉本にとって不満であったはず。方法論が学の最高の成果を継承してない。つまり捨てられたものと見えた。

3つの幻想
いきなり3つから始めれば3元論になってしまう。もちろんそうではない。3つは相互に連関している。書いたように本書には省略が大きいことがある。ではこの3つはどこから始まるだろうか。単純に考えれば、個人がもつ自己幻想が最初であり、それが他の個人とであい対幻想を、そしてその他大勢とであい共同幻想へ、というシナリオに見える。しかしそう単純ではない。人間が自分を個人として知るには、共同が必要とも言える。共同の中で共同から自分を抜き出して(逆立ちして)こそ個人というものは知られるからである。本書はこういったことは分散していて深く掘り下げられていない。本書での吉本はこれら幻想を考察の原点にしすぎているきらいがある。これらは過程としてみるべきだ。

禁制論
遠野物語の恐怖の共同性と放射能の恐怖の共同性。未知なものがもたらす恐怖。克服するには放射能を消す水の開発。

対幻想
対幻想はどうか。男女の関係とも言われる。しかし遡ればそれは一対一の関係とも言える。一対一になるためには個人が必要だが、男と女の区別を知るのはいつだろうか。書かれていない。吉本が始めている対幻想は男女の関係とある。それは一対の男女がある一つの観念を共有していることである。二人で一人のような状態のことである。自分のことだけ考えて行動するわけには行かなくなっている状態である。これが生まれるためには何が必要か。農耕だという。そこで時間性を得るという。穀物の育ちの循環が自分と同じであると知る。同時に違いとして、

やっぱり読みきれないのでここまで

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