形式主義に陥った慰安婦問題

数研出版が慰安婦や強制連行の記述を削除した。ここ最近の慰安婦騒動に連動した動きで、教科書の記述が政治的影響により書き換えられると言うことは学問の自由に反する。強制という言葉は自由の反対の概念を持つものだから慎重に扱わなければならない。

日本における強制の理解は政府の発言「人さらいのように連れ去った」に見られるように、身体的に抵抗しているのを暴力的に連れ去ったと介されている。しかし強制と言う言葉はそんな狭い意味で捉えられるものではない。日本の制定法でも誘拐罪、監禁罪、強要罪などがあるがこのような狭い意味で適用される法律ではない。

もはやこの問題は歴史の問題ではなく、自由や国のあり方に関わる問題になっている。国家は国民の自由のために存在することは近代国家共通の理念であり、国家を越えた国際的な機関のそれでもある。この様な動きが日本で広がれば日本は国際社会化ら低く扱われることになるだろう。

強制と言う問題は形式的に扱ってはならないのであって、それが許されてしまえばほぼすべての強制は存在しない。なぜなら他人の肉体や精神を自由に扱う方法はないのだから。よって強制かどうかはその人に心理的選択能力、その余地がなければならないしそのことによってしか計れないし、そういう強制をなくしていくのが国家の使命のはず。

戦争当時の中国、朝鮮や東南アジアの状況もあまり知れ渡ってはいない。このような状況の中で一部の歴史学者や右翼言論人に影響され、政府がこういう方向に向かったことは残念だ。本来であればあの戦争がどういうものであったのかを示し、それをよく振り返って、二度と同じことをしないために何が問題だったのかを認識し今後はこういうことが起きないということを国民や世界に確信させるよう努力しなければならないはずだ。

政府は海外宣伝の予算を増やし、日本の立場を説明すると言っているがこのような概念的な違いは決定的な違いだから理解されることはないだろう。