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利潤率の傾向的低下法則

近年、マルクスが再び脚光を浴びてきたようであるが、彼の理論の大きな支柱である利潤率の傾向的低下法則についてはネット上でもあまり語られていない。一方でマルクスに対しては正統派経済学からいつもずれた批判がなされるので、自分の理解のためにもその論理を整理し、さらに現代の問題とからめて未来の経済のあり方も概括しよう。

労働価値説
労働価値説は一般にアダム・スミスからリカードに引き継がれマルクスによって剰余価値説として発展した。価値の問題については常に需要と供給で決まると言う批判がなされる。しかしマルクスが考えているのは、需要と供給が一致し、生産形態も消費形態も一定で、なおかつその状態で社会が無限に運営可能と仮定した状態である商品が1000円だった場合に、それがなぜ1000円なのかを問うものなのである。こういう仮定をおくと需要と共有で答えることはできない。こういう状態において資本の利潤がどこから得られるのかを考えたときに、剰余価値という労働者がつくりだした価値から労賃を引いたものと考えた。しかしこういうふうに言われると企業家は嬉しくない。自分の立場が全く無視されているように感じるからだ。新しい価値の創造への転換を行うのは確かに企業家である。しかしそれが成功して、なおかつ長期にわたってその事業が続けられるときの状態をマルクスは考えているのである。もうひとつの前提はマルクスは労働者の生産活動を常態として行われるルーティン活動と捉えていて、作曲家などの芸術的活動は彼の理論からは外されているのである。

利潤率の傾向的低下法則
資本主義的生産ではしかし前述のような一定的な生産活動はなくつねに、技術は改善される。その結果、設備はどんどん大きくなる。設備がどんどん大きくなれば、投下資本に対する設備投資の割合が労働力に投資する割合よりどんどん大きくなっていく。しかし前述のように利潤は剰余価値であるので、全投下資本に対する利潤の割合、利潤率はどんどん低下するというのが利潤率の傾向的低下法則である。ここで傾向的という言葉が使われているのはいつの常に低下するというわけではなく、資本にとっては利潤率が低下することは好ましくないので、これを阻止するため資本はいろいろ頑張るが、結局は低下してしまうよということを言っている。

現代の日本は日銀の政策金利がほぼ0%となっていて、いわゆるリフレ派なるものが金融緩和を主張している。しかしこの原因についてあまり語られていない。利子とは資本市場では利潤から生じるものであって、日銀の政策金利もこれと関連している。とすればこれを利潤率の傾向的低下法則で見る見方があってもいいはずだ。一方ではトヨタの内部留保なども言われている。これについては詳しく調べていないがおそらくこれは遊休資本となってしまっている資本でもはや生産には投下できなくなってしまっている資本であると思われる。そしてグローバル化もある。起業は利潤率を上げるためにはもはや国内では限界になり海外へ行ってしまう。また設備がどんどん大きくなっていくことを資本の有機的構成の高度化と言うが、これによって起業も難しくなる。理由は簡単で元手がよりたくさんかかるようになるからだ。トヨタやホンダと競える車を作るのに一体いくらの資本が必要なのか。

そこで起業となればITということになるが、ITという分野はほとんどの側面でマルクスが考えていたような労働ではなく、芸術的活動に入るものだ。ソフトウェアは一度作ってしまえばあとは人間が労働する必要はない。少なくともルーティン的な労働は殆どなくなって常に新しいものを作っていかなければならない。同時にソフトウェアの生産手段であるPCはすでに個人によって所有されるほど廉価であるから、それをもって競争の中で交換価値をつくりだすほどのものを作るのは容易でない。サーバーが必要と言ってもP2Pを駆使すればそれすら回避できる可能性もある。

IT分野についてはインセンティブの問題もある。一版にはお金持ちになることがインセンティブとなるが、これには以下のような問題が提起されている。

つまりソフトウェアのような頭を使う労働はインセンティブがむしろ逆に作用して、フリーソフトのほうが優れてしまうというものだ。

こういった問題の中で今後の経済の見通しはまるでない。マルクスはこれを資本自身が資本主義的生産の限界を定めているだけだで、決して生産そのものの限界ではないというのだ。

マルクス理解の整理 part3

http://cruel.org/books/kapital/kapitalband1.pdf

ここの議論で、すでになぜか「労働」だけ特別扱いされていることに注目。ある商品が何でできて
いるか、たとえば紙だとか、プラスチックだとか、鉄だとか、というのは交換価値においては捨象される
ことになっている。だったら、それが労働の産物である、ということも捨象されているはずなのに、マル
クスはここでそれを「労働の産物」と言い続ける。労働価値説という変な議論をひねり出すための伏線が
すでにここにあるわけだ。
 さらに、ここの部分とその後の部分で、労働であることは捨象されないくせに、どんな労働であるかは
捨象されて、無視していいことになってしまうという恣意性にも注目。

商品は紙であることもあるし鉄であることもある、しかし労働が加わっていない商品を探すのは難しいし、あったとしてもそういうものは偶然的なもので考察の対象からはずしてもおかしくはない。商品の本質に労働は関係ないという考えならばそれはそれで別の論理になろうがマルクスは労働を本質においたという事。別段おかしな前提ではない。

そして労働という言葉そのものが存在する以上、その概念はあるわけで、すわなち個別の労働の質を捨象するという意識的合意はすでに存在することになる。よってそれを量として考えることは別段おかしな前提ではない。

前節のインチキの結果として、労働 = 価値という労働価値説が早速出てきてる。恣意的に労働と
いうのを残すという勝手な前提があるから、恣意的な労働価値説が導かれているだけだ。

労働を捨象しないのがおかしいと言うなら、なにを抽象するものを考えているのか。すべてを捨象した残りかすに意味はない。

ここでの「平均」とか「通例」という物言いで、マルクスは市場というのをなあなあでごまかそう
としているのに注目。

そうではなく、個別的偶然的なことは考えないで全体を考えようとしていること。そんなことを言うのなら現実には円も直線も存在しないので、そういうことを考えるのはすべてごまかしということになる。

じゃあさっきのダイヤは?

ダイヤが役に立つかどうかは社会的に決まること、最初は個人が役に立つと確信して個人的労働を投入するが、それが売れない、すなわち使用価値を持たないなら、彼は失敗したと言うことで、結局彼のやっていたことは労働ではなかったと言うこと。それは個別的偶然的な自称でしかなく、考察に値しないと言うこと。学問は必然的なものを対象とする。マルクスは全体として考えているので、労働と言った場合は実現される労働を念頭においている。

じゃあリネンと上着の場合だって同じ量の繊維でできているいった意味になるだろうに。要する
に、モノにはいろんな性質があって、だから等号で結んだときそれが何をもって「等しい」としているか
はその式を書いた人次第なのだ。恣意的に考えた「価値」を前提の段階でマルクスが負わせたからこそ、
その後の価値形態論が引き出されるだけ。ここもまた、前提がめぐって結論になってるだけだ。

前提がめぐって結論になるのは当然でしょうに。

訳しててうんざりするんだが、マルクスはここで同じことを何度も何度も、ちょいと語順を変えた
りしてくどくど言い直しているけれど、何も新しいことを言っていないのだ。何かちがいがあるんだろう
と思いこんでそれを読み取ろうとすると、深読みして重箱の隅つつきに堕するはめになるのでご注意を。

この時点での記述はまだ貨幣が登場してない世界の話。それを知っている人間にとっては、当たり前のように見える。しかしその当たり前の背後には色々あるということ。

飽きたのでもうやめよう。

マルクス理解の整理 part2

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_90523.html

【「労働力再生産」という考え方をどうする】
 それと、もうひとつ扱いに悩むのが、「労働力再生産費」という賃金論について。
 『資本論』の労働搾取の説明、有名なんですけど知ってますか。賃金は、「労働力の価値」、すなわち、労働力の再生産に必要な労働に対応しているってこと。早い話、人間が生きて明日も働けるようにするための、食料とか衣類とかの生活物資の労働価値が、賃金の正体だというのだ。資本家が労働者から買うのは「労働力」なんだから、労働力の価値通りに賃金が払われれば、なんら不正なことのない等価交換なんだと言う。
 ところがそれに対して、実際に働く労働量そのものは、労働力の価値とは無関係にひきのばすことができる。この労働量と、労働力の価値との差が、資本家が労働者から搾取する労働、すなわち「剰余労働」であって、これが利潤の正体である。──こういう話である。
 それで、伝統的マル経のみなさんは、「労働」と「労働力」は違うってことを、マル経の核心と考えて強調なさることになる。「労働力の再生産」という見方こそが、近経にはないマル経の「科学」としての正しさのあかしだとされてきた。

論述の順番がおかしい、なぜ労働力という言葉が要請されるのか。まず価値をつくるのは労働である、人間の精神的肉体的支出、しかも社会的、つまり自分や自分の家族以外の第三者のためのものであること。資本主義社会では、そうすると、賃金と言うものがあってそれが労働の価値のように見える。しかし価値をつるくのは労働なのに、労働の価値って言葉はおかしいことになる。アダムスミスが気づかなかったこの矛盾に気づいたのがマルクスの偉いところ。そして資本主義社会では労働力の価値は労働者がぎりぎり生きていけるところまでは落とせるということ、実際に社会がそうなっていないならばそれは資本主義的でない作用が存在するということ。

ところが、現代の「マルクスの基本定理」は、「労働」と「労働力」の区別など必要としない。賃金が、「労働力の再生産費」で決まろうが、限界生産力で決まろうが、労資の勢力で決まろうが、もう何でもいい。ともかく、ある賃金のもとで利潤がありさえすれば、その背後に労働の搾取があることが論証できるという、極めて強力な定理なのである。

個別の話と論理の話がごっちゃになってる。個別的というのは偶然的ということでそういうものに学問は関わらない。資本主義社会全体でみれば搾取があるということ。

【労働力再生産概念は搾取論否定論かも】
 「マルクスの基本定理」への批判に、「一般化された商品搾取定理」ってのがある。詳しくはこちらを参照のこと。要するに、「マルクスの基本定理」が、利潤の存在と同値になる条件として、「労働1単位分の労働力を生産するために直接間接に必要な労働が1単位よりも小」というものを見つけ、それに「労働の搾取」なる解釈をつけるならば、全く同様に、「バナナ1単位生産するために直接間接に必要なバナナが1単位よりも小」という条件も利潤の存在と同値になり、これを「バナナの搾取」と呼ばなければならないことになる。だから「搾取」などと言う価値判断を込めた読み込みはおかしいというわけだ。

なにを言ってるのか全然わからん。労働が価値つるくというのがマルクスそして古典派の基本、バナナそのものには価値などない。そもそも価値と言うありふれた言葉を使うから問題なのだろうが。worthはあってもvalueはないとでも言えばいいか。その基本を無視してマルクスを批判しても無意味。あたかも数学を文学で批判するようなもの。好意的に解して、「バナナ1単位を生産するために投入される労働力の賃金が直接間接に必要なバナナの生産するために投入される労働がつくった価値より」と言えばいいのか。

1) マンキューの「経済学の十大原理」
 アメリカのニューケインジアンの経済学者、グレゴリー・マンキュー教授(ハーバード大)が著書の教科書の冒頭に掲げた次の原理。
原理1:人々はトレード・オフ(あれかこれか)に直面している。

トレードオフって便利な言葉でどんなものにも言えるので意味のない命題。

原理2:あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である。

価値ってなんとでもいえるので意味のない命題。価値とはなにかについて全然考えてない。

原理3:合理的な人々は限界原理を考える。

量の限界は質の転換につながるということを考えずにこういうをいうのは中途半端。そしてそんな限界に飽きて無限を考えるのが理性。マージナルでもリミットでもいい。

原理4:人々はいろいろなインセンティブ(誘因)に反応して行動する。

くだらねぇ。原因と結果ってことだろ。

原理5:取引は全ての人をよりよくすることができる。

くだらねぇ。よいとか悪いとか、学問に携わる人間がよく無前提に使えるな。

原理6:通常、市場は経済行動を組織する良策である。

同上。そしてそれを必然とまで考えつくせていないことの告白でもある。

原理7:政府はときどき市場のもたらす結果を改善することができる。

同上。しかしくだらねぇ。

原理8:一国の生活水準は財とサービスの生産能力に依存する。

最近そんなこともなくなってるみたいだがまぁいいや。

原理9:政府が紙幣を発行しすぎると物価は上がる。

流通しなけりゃ上がらない。

原理10:社会はインフレーションと失業の間の短期トレードオフ関係に直面している。

インフレを正常なものと見ればそうだと思うが、それを全体として見る視点をもってるのこのマンキューって人は。

結論:マンキューを読むとバカにになる。

古典へ回帰

福田和也から聞いた。文学のモードにはループがあるんだと。正確には覚えていないが、ロマン主義→象徴主義→古典主義だったか。この言葉遣いだとわかりにくい。ロマン主義ってのは恋愛ってことでいいかな?。象徴主義はセカイ系。古典主義は昔へ戻ろうということか?。確かに恋愛はコンカツだの草食系だのおなかいっぱいだ。セカイ系もコードギアス以降なにもない。そういえば東浩紀がどっかでセカイ系の限界でどーにもならないみたいにいっていた記憶があるな。とすれば次に来るのが昔に戻る。前に少し書いたと思うが、これをやってるのが宮崎駿だろう。ポニョはまだ見てないが海がテーマみたいだ。人間が昔にもどれば、まずは野生の草木の茂った感じにもどり、さらに戻れば海に戻る。海まで戻って今度どうするだろうか?戻るのはやめてロマン主義にループしなおすのかな?

ところで宮崎も言っているように木とか草とかは人間にとって大切ですね。もし少しそとに出てもまったく木とか草とかなくて鉄とコンクリートだけだったらそれはそれは息苦しいでしょう。シャーアズナブルが昔言っていた。地球を壊す理由は、自然に対して贖罪しなければならないから、そこから抜け出すためにぶっ壊すのだと、「なんでこれがわからん」と言って泣いていた。シャーの考えは歴史を見てないとも言えるし、思考が進みすぎているとも言えると思う。進みすぎているというのは、上の話の続きで海を越えて地球を越えて宇宙まで言ってしまうという意味で。

経済学でも古典回帰が起きているようだ。マルクスがブーム?自分としてはアダムスミスに戻って欲しいな。アダムスミスの見えざる手は自由主義との関係で論じられるが、スミスが何でそんなこと言ったのかといえば当時の重商主義的な雰囲気が嫌だったんだろう。それはたぶん封建的な雰囲気で無駄なとりきめに縛られる。

スミスは自分が感じるところでは、ひ弱で繊細でいわゆるいいやつ、見たいな感じで理解している。だから今の世の中をスミスが見たら、自由主義的なことを声高に主張しないと思われる。

ただ昔へ戻るといってもなんでもかんでも昔と同じにするわけではない。取捨選択がある。そして昔に戻るといってもそれは革新的な古典主義であるだろう。そうでなければ人間は納得しない、自由を感じないからだ。

ところで保守は今何をしているのか?山崎行太郎がいつも嘆いているが、自分もそう思う。まともなやつがいない。

保守について思うこと。天皇制の捉え方。天皇制という言葉を使うと、左翼と言うやつがいる。しかし天皇という個人には対しては理性として捕らえるものなどない。だからそれは制度として、それを成り立たせている全体から考えるのがより進んだ考え方で、天皇制という言葉は適切なのだ。

富田メモ騒動があった。保守は「財界が中国と仲良くするために云々」言って批判していた、そしてそのレベルで終わってしまった。自分は天皇個人の考えなどどうでもいいと考えているから、もちろんどうでもいいといっても尊敬はしているが、だからたとえ天皇が自分の考えと違っていても別にどうでもいいわけだが昨今の保守の人は大層困ってしまうらしい。困ってしまってどうにもなくなって沈黙してしまったらしい。保守はまずこの問題にしっかりとり熊ないと自由に思考できないでしょう。

女系問題。どうでもいい。天皇なんか別に誰でもいい。義務さえ果たせば。世襲なのはそれが一番文句が出なかったってことだろう。だから文句が出ない方法なら何でもいいことになる。だからくじ引きでもいい。

政府紙幣発行の危険性

政府紙幣の発行が、高橋洋一事件も合い間って盛り上がってきました。しかしこの政策には一抹の不安も伴う。それは資本の抵抗措置だ。つまり賃金を下げられる可能性がある。政府紙幣でもBIでもそれで価値を手に入れれば、もう生活能力ありと判断され、それまでと同じレベルになるまで賃金が減らしてもいいというインセンティブが働く。もちろんそれはそういうことを恒常的に行った場合で一回限りであるならば大きな影響はないかもしれない。しかしその機を狙って賃金を下げてくるかもしれない。もしそうなれば、状況はかえって今より悪くなることもありえる。

資本主義は怖いし、甘くない。一見うまくいきそうなことをやっても他のことで復讐され、今までどおりになるか、かえって悪くなる。だからこそ、そういうことを見てきたマルクスはそういったやりかたを「ユートピア(空想的社会主義)」として軽蔑し、徹底的に分析しなければならないと考えた。

政府紙幣は一見いい話に見える。「金持ちが反対してるだけだろ」といいたくなる。しかしこの資本主義の社会で下手に夢を見るのは怖すぎる。だからといってこのままでどうするのだと言われるかもしれないが、やはり冷静に欧米や労働運動などを参考に冷静にやっていくしかないだろう。

いずれにしても自民党、少なくとも麻生氏や与謝野氏を見ている限り、状況がよくなるとは考えにくい、特に麻生氏は自らを「経営者の視点にたつ」と言った。まずこれは取り消さないと駄目だと思う、労働者あるいは消費者の立場に立たなければ、国内で消費してくれる人がいない。財政政策をやったって勝ってくれる人がいなければ、いずれ倉庫が一杯になってしまう。

マルクス理解の整理

http://agora-web.jp/archives/522309.htmlより

『資本論』の主要なテーマは、市民社会そのものではなく、ほんらい自由・平等な市民社会からなぜ不平等な資本主義(資本家的生産様式)が立ち上がってくるのか、という問題です。

”ほんらい自由・平等な市民社会”という言い回しは、多分にイギリス的なものであって、ヘーゲルを経ているマルクスがこんな想定をしているとは思えななぁ。

これはすべての利潤が消滅する市場の中でいかにして付加価値を生み出すか、というイノベーションの問題でもあります。

全然違う気がします、マルクスは”イノベーション”など放っておいても起こってくるものであり、それは個別の問題であり、そういった物の全体を捉える、と言う視点と思われます。”利潤が消滅する市場”とはなんだろう?マルクスにおいては利潤は剰余価値のことであり、労働力以外の商品の交換では利潤など発生しない。個々のレベルで見れば、利潤があるように見えても、もともと等価交換であるので全体として見れば、ただのゼロサムゲームにすぎない。こういった視点はケインズのような企業家からの視点であって、マルクスのような全体を見る視点からの発想ではない。

マルクスはこれを「貨幣の資本への転化」として説明しました。

のではなく、”貨幣の資本への転化”は必然的結果として捉えられているのだ。

そのコアにある論理は、労働力の商品化です。資本家は労働力の価値に等しい賃金を労働者に払って、その労働の生産物を売る。したがって労働によって創造される価値から賃金を引いた剰余価値が資本家のものになる、というわけです。しかしこの論理は、よく考えるとトートロジーです。

労働を商品として見るのが”労働力”だと思うので、”労働力の商品化”とか”労働の価値”(アダムスミスの言葉)はおかしくないかな。

なぜ労働の価値が労働力の価値(賃金)をつねに上回るのか、もし下回ったらどうなるのか、といったことについてマルクスはまったく説明していない。

もし下回ったら、上回るように努力するし、努力しなければ資本がなくなって社会から消える。そういった個別のことはマルクスは考えない。それでなにがトートロジーかはよくわからないんだが、マルクスの剰余価値はとりあえずは仮説あるいは定義なのです。実証は現実を見ればいいのです。

私は、資本主義の矛盾はもっと根本的なものだと思います。それは等価交換を原理とする市場と不等価交換を原理とする資本主義の矛盾です。

これは企業家の頭の中にある矛盾であって、システムとしての矛盾ではない、システムとしての矛盾は資本がどんどん大きくなってついには限界に来ること、金はあっても使い道がない、しかしその一方、貧乏人があふれている、と言うことです。

ただ、これで「金融資本主義は終わった」などと断じるのは早計で、特に日本には金融資本主義もろくにできていないので、まだ大きな鞘があります。

おっしゃるとおりですが、このまま資本主義を拡大させるのか、あるいは弱めていくのかは大きな問題です。

市場が同化のメカニズムだとすれば、資本主義は差異化のメカニズムであり、経済のエンジンは後者です。

資本主義そのものに対する差異化も起こってくる。差異化とは人間に備わった能力であり、資本主義でだけ可能なのもではない。経済のエンジンといっても、大部分の人間にとってマイナスのエンジンならば差異化により捨てられるのです。

ノブタンの文章は検索用RSSリーダにつねに引っかかってきて、しかも一言言いたくなる。まとめとしてはノブタンの思考は基本的にイギリス的、アメリカ的、実証主義的。経済としては企業家的。よって、まず日本の企業家をどうにかしたほうがいいんじゃないのかな。BCASの時みたいに。そんなわけで、これからもがんばって下さい。