Tag Archive for 労働力

ベーシックインカム

ベーシックインカムの実現した社会を考えると、そこではもはや人々は飢餓や生存の恐怖から、程度の差こそあれ、ある程度開放される。その結果単純作業をしている労働者は仕事をやめ、その結果それらの賃金が上がる。価格が上がる。衣食住ガス水道鉄道(必需)の価格は上がり、想定していたベーシックインカムの最低価格を上昇させなければならなくなるかも。知れない。一方賃金の上昇により、それらを機械に置き換えることが要請される。

となれば労働力の価値はどう測られるのだろうか?それが個人にとって自己実現に結びつく度合いによって、つまりその労働に自分の精神が同居できる度合い、精神を投入できる度合い。10%しか精神投入できない労働は50%精神投入できる労働の5倍の賃金が必要になる。これは単純すぎる計算だがプラスの傾きをもつ傾向で表されるだろう。

しかし必需的な単純労働は一定期間は誰かがやらなければならないから、それは最終的には徴用が必要になるかもしれない。とはいえそれらの生産設備は国のものではないのだから簡単にはいかない。

一方芸術的創造は交換価値を持ちえなくなる。それらを創造し流通する手段はもう個人の手にあるからだ。

企業の側ではベーシックインカムの実施により、その分だけは賃金を下げてもよい、という道徳的な影響を受ける。

結論としてはどうなるかわからない。よって政治的には限界に来るまで実現されない。かな

マルクス理解の整理 part2

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_90523.html

【「労働力再生産」という考え方をどうする】
 それと、もうひとつ扱いに悩むのが、「労働力再生産費」という賃金論について。
 『資本論』の労働搾取の説明、有名なんですけど知ってますか。賃金は、「労働力の価値」、すなわち、労働力の再生産に必要な労働に対応しているってこと。早い話、人間が生きて明日も働けるようにするための、食料とか衣類とかの生活物資の労働価値が、賃金の正体だというのだ。資本家が労働者から買うのは「労働力」なんだから、労働力の価値通りに賃金が払われれば、なんら不正なことのない等価交換なんだと言う。
 ところがそれに対して、実際に働く労働量そのものは、労働力の価値とは無関係にひきのばすことができる。この労働量と、労働力の価値との差が、資本家が労働者から搾取する労働、すなわち「剰余労働」であって、これが利潤の正体である。──こういう話である。
 それで、伝統的マル経のみなさんは、「労働」と「労働力」は違うってことを、マル経の核心と考えて強調なさることになる。「労働力の再生産」という見方こそが、近経にはないマル経の「科学」としての正しさのあかしだとされてきた。

論述の順番がおかしい、なぜ労働力という言葉が要請されるのか。まず価値をつくるのは労働である、人間の精神的肉体的支出、しかも社会的、つまり自分や自分の家族以外の第三者のためのものであること。資本主義社会では、そうすると、賃金と言うものがあってそれが労働の価値のように見える。しかし価値をつるくのは労働なのに、労働の価値って言葉はおかしいことになる。アダムスミスが気づかなかったこの矛盾に気づいたのがマルクスの偉いところ。そして資本主義社会では労働力の価値は労働者がぎりぎり生きていけるところまでは落とせるということ、実際に社会がそうなっていないならばそれは資本主義的でない作用が存在するということ。

ところが、現代の「マルクスの基本定理」は、「労働」と「労働力」の区別など必要としない。賃金が、「労働力の再生産費」で決まろうが、限界生産力で決まろうが、労資の勢力で決まろうが、もう何でもいい。ともかく、ある賃金のもとで利潤がありさえすれば、その背後に労働の搾取があることが論証できるという、極めて強力な定理なのである。

個別の話と論理の話がごっちゃになってる。個別的というのは偶然的ということでそういうものに学問は関わらない。資本主義社会全体でみれば搾取があるということ。

【労働力再生産概念は搾取論否定論かも】
 「マルクスの基本定理」への批判に、「一般化された商品搾取定理」ってのがある。詳しくはこちらを参照のこと。要するに、「マルクスの基本定理」が、利潤の存在と同値になる条件として、「労働1単位分の労働力を生産するために直接間接に必要な労働が1単位よりも小」というものを見つけ、それに「労働の搾取」なる解釈をつけるならば、全く同様に、「バナナ1単位生産するために直接間接に必要なバナナが1単位よりも小」という条件も利潤の存在と同値になり、これを「バナナの搾取」と呼ばなければならないことになる。だから「搾取」などと言う価値判断を込めた読み込みはおかしいというわけだ。

なにを言ってるのか全然わからん。労働が価値つるくというのがマルクスそして古典派の基本、バナナそのものには価値などない。そもそも価値と言うありふれた言葉を使うから問題なのだろうが。worthはあってもvalueはないとでも言えばいいか。その基本を無視してマルクスを批判しても無意味。あたかも数学を文学で批判するようなもの。好意的に解して、「バナナ1単位を生産するために投入される労働力の賃金が直接間接に必要なバナナの生産するために投入される労働がつくった価値より」と言えばいいのか。

1) マンキューの「経済学の十大原理」
 アメリカのニューケインジアンの経済学者、グレゴリー・マンキュー教授(ハーバード大)が著書の教科書の冒頭に掲げた次の原理。
原理1:人々はトレード・オフ(あれかこれか)に直面している。

トレードオフって便利な言葉でどんなものにも言えるので意味のない命題。

原理2:あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である。

価値ってなんとでもいえるので意味のない命題。価値とはなにかについて全然考えてない。

原理3:合理的な人々は限界原理を考える。

量の限界は質の転換につながるということを考えずにこういうをいうのは中途半端。そしてそんな限界に飽きて無限を考えるのが理性。マージナルでもリミットでもいい。

原理4:人々はいろいろなインセンティブ(誘因)に反応して行動する。

くだらねぇ。原因と結果ってことだろ。

原理5:取引は全ての人をよりよくすることができる。

くだらねぇ。よいとか悪いとか、学問に携わる人間がよく無前提に使えるな。

原理6:通常、市場は経済行動を組織する良策である。

同上。そしてそれを必然とまで考えつくせていないことの告白でもある。

原理7:政府はときどき市場のもたらす結果を改善することができる。

同上。しかしくだらねぇ。

原理8:一国の生活水準は財とサービスの生産能力に依存する。

最近そんなこともなくなってるみたいだがまぁいいや。

原理9:政府が紙幣を発行しすぎると物価は上がる。

流通しなけりゃ上がらない。

原理10:社会はインフレーションと失業の間の短期トレードオフ関係に直面している。

インフレを正常なものと見ればそうだと思うが、それを全体として見る視点をもってるのこのマンキューって人は。

結論:マンキューを読むとバカにになる。