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吉本隆明と原発

吉本隆明と原発のテーマ。ネット上にはあまりまともな言説がない。しかし言われているよりは哲学的領域、吉本の基本的認識の領域が含まれている。
結論から書けば、人類はそれが危険だからという理由で何かを封印できたことなどないということ。それはなぜか、そこに吉本の態度の答えがある。

よく言われる言説、人間と動物の違い、人間は自分自身を見ることによって人間になる。しかしこれだけではない。精神が精神自体を見るという循環構造が維持されるためには、単なる反復ではなく、しかも単なる変化でもなく、反復の中からの変化でなければならない。文化も人間も常に進展するのは、進展がなくなれば精神が必要なくなること、人類滅亡を意味することになる。吉本の原発推進の話はここまでの射程はある。彼の言う原発推進は単なるべき論ではなく、いつか人類はその危険性を克服するということ、さらには原発自体を克服するということ、それに逆らっても無駄だということ。技術や自然に対する知はは常に展開するのだから、そうでなければ人類が終わるのだから、いつかは克服されるという視点である。

これに対する対抗はニーチェの超人、ポストモダンの戯れ。しかしそれを徹底させることは精神を捨てることになる。よって維持する手法は忘却すること。しかし忘却は意思によってはできない。なぜか。精神の成果は頭の中だけに存在するわけではなく、それを外部の自然に刻みつけるからだ。それを拒否するなら、活動は禁止され、外に対する表出さえ禁じければならなくなる。

共同幻想論 感想文 その1

記述を解釈的なものと創造的なものに分けるならこの書は後者になる。吉本の記述は多いが後者のものはそう多くない。もちろんその価値は量的なもので計られるものではない。

難解である。理由の一つは、当然創造的なものであっても過去の成果を踏まえていることが要求されるが、それを省略していること。一つは、その思考法が一般的な馴染みやすさを備えていないこと。一つは記述の順序が同様に馴染みやすさをもっといないこと。もちろんこれらは相互に関連している。

過去の成果はヘーゲル、マルクスにあるのは間違いなく、その思考法もこれによっている。例えば本書ではフロイトが心理的なものから制度的なものを推論することを拒否していること、一般的にはなぜ拒否されるのか分からない。あるいは逆立ち、疎外、矛盾、移行という言葉。とはいえ本書がどこまでもそれを徹底化しているかには疑問があるがそれは示せるなら示そう。

幻想という用語
幻想という、そして共同幻想は上部構造と同じだという。観念と同じとも言う。上部構造という言葉を使いたくないのはわかるとして、なぜ共同観念ではまずいのか。観念と言ってしまえば、それはすでに対象化されているという過程を表しているが、幻想というからにはまだそこまで至っていない、という視点があるだろう。少なくとも注意すべきは、幻想と言ったからといってそれが、本当は存在しないものだとか、嘘のものだとかに解釈されてはならず、あくまでもそこにあり、人間に決定的なものというふうに理解されなければならないこと。あとはこれら幻想は、それ自体が主体となって展開するものとして読みたい。それが受け継いだ方法論であろうから、だから記述に矛盾があるように見えても、それは段階の違いをよく見なければならない。三つ巴の幻想が相互に関連しながら展開として読む。では幻想は我を忘れるか。全く低い状態に逆戻りするか。ないと読みたい。幻想は自らの成果を自然に焼き付けるとしたい。

下部構造と切り離せるか
唯物論をタダ物論と見る見方になればそれは未開の自然しかない。この未開の自然から動物が発生し動物から人間が発生した、これが一般的な見方である。吉本はこの見方をとってない。あくまで幻想の論だ。しかし有名なミツバチの話、人間はミツバチが素をつくるのとは違って、家を作る前に設計図をもっている、というマルクスの話。つまり人間がつくった家はモノではなく精神である。ではタダ物論では唯物論とはなにか。

学的意義
民俗学、民族学は吉本にとって不満であったはず。方法論が学の最高の成果を継承してない。つまり捨てられたものと見えた。

3つの幻想
いきなり3つから始めれば3元論になってしまう。もちろんそうではない。3つは相互に連関している。書いたように本書には省略が大きいことがある。ではこの3つはどこから始まるだろうか。単純に考えれば、個人がもつ自己幻想が最初であり、それが他の個人とであい対幻想を、そしてその他大勢とであい共同幻想へ、というシナリオに見える。しかしそう単純ではない。人間が自分を個人として知るには、共同が必要とも言える。共同の中で共同から自分を抜き出して(逆立ちして)こそ個人というものは知られるからである。本書はこういったことは分散していて深く掘り下げられていない。本書での吉本はこれら幻想を考察の原点にしすぎているきらいがある。これらは過程としてみるべきだ。

禁制論
遠野物語の恐怖の共同性と放射能の恐怖の共同性。未知なものがもたらす恐怖。克服するには放射能を消す水の開発。

対幻想
対幻想はどうか。男女の関係とも言われる。しかし遡ればそれは一対一の関係とも言える。一対一になるためには個人が必要だが、男と女の区別を知るのはいつだろうか。書かれていない。吉本が始めている対幻想は男女の関係とある。それは一対の男女がある一つの観念を共有していることである。二人で一人のような状態のことである。自分のことだけ考えて行動するわけには行かなくなっている状態である。これが生まれるためには何が必要か。農耕だという。そこで時間性を得るという。穀物の育ちの循環が自分と同じであると知る。同時に違いとして、

やっぱり読みきれないのでここまで

小沢一郎辞任した

小沢一郎が辞任した。以前のエントリーで彼が党首続投を決めたことを歴史的瞬間などと書いたが、その意思は未来にゆだねられる事になった。この件を通じて考えさせられるのは「大衆」と言うものをどう見るか、ということだ。小沢氏は続投後は最後まで大衆的な意識を前提に行動を測っていたように思われる。

民主主義においては決定的には、つまり手続き的には多数決で決まるから大衆の意識を反映したものになる、しかし、政治家個人の意識において、思考、行動において大衆の意識を前提に行動するという考え方には自分は与することができない。

吉本隆明氏の言葉に「大衆の原像」がある。上に書いた小沢氏の態度はまさにこれに適合したようなあり方になっている。この言葉とそこから派生する考え方を自分はよく理解できないが、その理由は彼自身も理解したくないということにあると思う。つまり彼の組合運動の失敗に対して自分の態度を決定できていない状態で、そのことは彼の党派性に対する嫌悪にも結びついていると思う。

自分は「大衆の原像」という考え方は支持できない。だからといってポピュリズムや衆愚などといって蔑むつもりもないし、自分の考え方に大衆を啓蒙しようという考えもないし、お互いに意見を交換しながら相互理解をするつもりもない。だからあるとしたら、どちらの考えが勝利するにしろ、勝っても負けてもそれを同じ価値観で見ることのできる視点を把握することだと思う。

本来学問とはこういう視点を提供するものだと思うが、現在の学問はこういうことを一切教えてくれない。だから古典の中に答えを探すしかない。