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古典へ回帰

福田和也から聞いた。文学のモードにはループがあるんだと。正確には覚えていないが、ロマン主義→象徴主義→古典主義だったか。この言葉遣いだとわかりにくい。ロマン主義ってのは恋愛ってことでいいかな?。象徴主義はセカイ系。古典主義は昔へ戻ろうということか?。確かに恋愛はコンカツだの草食系だのおなかいっぱいだ。セカイ系もコードギアス以降なにもない。そういえば東浩紀がどっかでセカイ系の限界でどーにもならないみたいにいっていた記憶があるな。とすれば次に来るのが昔に戻る。前に少し書いたと思うが、これをやってるのが宮崎駿だろう。ポニョはまだ見てないが海がテーマみたいだ。人間が昔にもどれば、まずは野生の草木の茂った感じにもどり、さらに戻れば海に戻る。海まで戻って今度どうするだろうか?戻るのはやめてロマン主義にループしなおすのかな?

ところで宮崎も言っているように木とか草とかは人間にとって大切ですね。もし少しそとに出てもまったく木とか草とかなくて鉄とコンクリートだけだったらそれはそれは息苦しいでしょう。シャーアズナブルが昔言っていた。地球を壊す理由は、自然に対して贖罪しなければならないから、そこから抜け出すためにぶっ壊すのだと、「なんでこれがわからん」と言って泣いていた。シャーの考えは歴史を見てないとも言えるし、思考が進みすぎているとも言えると思う。進みすぎているというのは、上の話の続きで海を越えて地球を越えて宇宙まで言ってしまうという意味で。

経済学でも古典回帰が起きているようだ。マルクスがブーム?自分としてはアダムスミスに戻って欲しいな。アダムスミスの見えざる手は自由主義との関係で論じられるが、スミスが何でそんなこと言ったのかといえば当時の重商主義的な雰囲気が嫌だったんだろう。それはたぶん封建的な雰囲気で無駄なとりきめに縛られる。

スミスは自分が感じるところでは、ひ弱で繊細でいわゆるいいやつ、見たいな感じで理解している。だから今の世の中をスミスが見たら、自由主義的なことを声高に主張しないと思われる。

ただ昔へ戻るといってもなんでもかんでも昔と同じにするわけではない。取捨選択がある。そして昔に戻るといってもそれは革新的な古典主義であるだろう。そうでなければ人間は納得しない、自由を感じないからだ。

ところで保守は今何をしているのか?山崎行太郎がいつも嘆いているが、自分もそう思う。まともなやつがいない。

保守について思うこと。天皇制の捉え方。天皇制という言葉を使うと、左翼と言うやつがいる。しかし天皇という個人には対しては理性として捕らえるものなどない。だからそれは制度として、それを成り立たせている全体から考えるのがより進んだ考え方で、天皇制という言葉は適切なのだ。

富田メモ騒動があった。保守は「財界が中国と仲良くするために云々」言って批判していた、そしてそのレベルで終わってしまった。自分は天皇個人の考えなどどうでもいいと考えているから、もちろんどうでもいいといっても尊敬はしているが、だからたとえ天皇が自分の考えと違っていても別にどうでもいいわけだが昨今の保守の人は大層困ってしまうらしい。困ってしまってどうにもなくなって沈黙してしまったらしい。保守はまずこの問題にしっかりとり熊ないと自由に思考できないでしょう。

女系問題。どうでもいい。天皇なんか別に誰でもいい。義務さえ果たせば。世襲なのはそれが一番文句が出なかったってことだろう。だから文句が出ない方法なら何でもいいことになる。だからくじ引きでもいい。

かわいい文化の終焉

日本のサブカルの柱の一つは「かわいい」であった。「萌え」などとも言われたこの概念だが、この「萌え」という言葉はもうほぼ聞かれなくなっている。

個人的にはこれは歓迎する。今日本ではメインカルチャーまでが「かわいい」で覆われ、その結果かわいくない女性には価値はないとし、それが社会的、経済的な人間のリアルな現実の領域まで浸透してしまっている。

これからのサブカルを担えるモードは何になるのか?少なくともアメリカ的な「self-confidence」的なものではないだろう、それはオタクになじまない。とはいえいわゆる「セカイ系」もやりつくした感があり、それではオタクの欲求を満足できないのではないかと思われる。

ひとつの可能性として「過去への回帰」という視点があると思う。アニメで言えばこの概念を実現しているのは宮崎駿だ。彼の志向のひとつは文明の中で失われてきた、人間の自然的側面、つっこんで言えば人間の動物的側面、植物的側面である。それは「もののけ姫」やこれはまだ見ていないが「ポニョ」などに現れていると思う。

そういった「過去への欲求」はどの人間もそなえる本質的な欲求であると思う。人は機械の中にずっといると自然が欲しくなる。この欲求は人間とて遡れば動物であり、生物であるというその現実が求める肉体的な欲求だからだ。