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ホリエモンと小沢一郎の資本主義の精神

ホリエモンとか小沢氏が検察にやられたときに、どれだけの人が検察を非難するかが、この国がどれほど資本主義に向いているかを示していると。資本主義を前に進める精神は彼らのように既存の殻を社会の倫理を忘却して破っていく精神です。そういう精神がないと資本主義のいいところは機能しなくて悪い面だけが大きくなっていくと思います。

youtubeなんて特に初期の頃は著作権侵害しまくりのはずなのになんで訴えられたり虐められたりしないのだろうかと言えば、一番大きく言えば人々がつぶすべきではないと判断したからだと思う。

こういう上の立場の人とともに大切なのが労働者の精神。欧米ではストが起こるのに日本では全然起きないどころか労使が協力してやっている。つまり上を見ても下を見ても日本は資本主義には適さないということだろう。

だから資本主義はほどほど諦めて、国がやればいいのだ。ベンチャーだって市場でやらないで国が融資すればいい。それが絶対できないと言う理由はない。労働運動だって国が助ければいい。民主党の経済成長などといって全然逆を行っている。供給から需要へとかよくわからないことを言っていたが、それが成功するとすれば同時に進行している福祉の増大や育児手当によるものになると思う。しかし育児手当などは本来の解決法ではなく、そんなものが必要になってしまう原因を除去しなければならないはず。BIだって同じ理由で全然だめだとおもう。

そういえば朝青龍もいました。なんか笑顔で責任をとって辞めるとか言ってて笑いましたが、せっかく土俵の上では鬼になるとかいいこと言ってたんだから、何回注意されてもそのたび適当に謝って、ガッツポーズ(笑)しまくればいいのにと思いました。やっぱり途中でやめてしまうとがっかりしますね。別に見てないけど。

小沢一郎辞任した

小沢一郎が辞任した。以前のエントリーで彼が党首続投を決めたことを歴史的瞬間などと書いたが、その意思は未来にゆだねられる事になった。この件を通じて考えさせられるのは「大衆」と言うものをどう見るか、ということだ。小沢氏は続投後は最後まで大衆的な意識を前提に行動を測っていたように思われる。

民主主義においては決定的には、つまり手続き的には多数決で決まるから大衆の意識を反映したものになる、しかし、政治家個人の意識において、思考、行動において大衆の意識を前提に行動するという考え方には自分は与することができない。

吉本隆明氏の言葉に「大衆の原像」がある。上に書いた小沢氏の態度はまさにこれに適合したようなあり方になっている。この言葉とそこから派生する考え方を自分はよく理解できないが、その理由は彼自身も理解したくないということにあると思う。つまり彼の組合運動の失敗に対して自分の態度を決定できていない状態で、そのことは彼の党派性に対する嫌悪にも結びついていると思う。

自分は「大衆の原像」という考え方は支持できない。だからといってポピュリズムや衆愚などといって蔑むつもりもないし、自分の考え方に大衆を啓蒙しようという考えもないし、お互いに意見を交換しながら相互理解をするつもりもない。だからあるとしたら、どちらの考えが勝利するにしろ、勝っても負けてもそれを同じ価値観で見ることのできる視点を把握することだと思う。

本来学問とはこういう視点を提供するものだと思うが、現在の学問はこういうことを一切教えてくれない。だから古典の中に答えを探すしかない。

小沢一郎辞任するか?

小沢一郎代表の続投が決まり、マスコミや識者と言われる人の多くが氏の辞任を求めている。前にも書いたように小沢氏を支持をするのは非常に難しい状況にある。自民でも同じように西松関連の火種が出て、即辞任となったとき、小沢氏はどう説明できるだろうか?自分なりの答えを書いてみよう。キーワードは「民主主義」、「金権政治」、「企業主体」、「国民の生活」。今まで言ってきたことだ。

1、いままでは金がなければ当選できなかった。
2、と同時に、当然ながら、それへの反発から法が整備されてきた。
3、しかし金権政治の実態は変わらず、裏に隠れただけだった。
(自分もそういうことをやってきたが終わりにしたい)
4、その結果、法の恣意的な運用による官僚の権力が増大してしまった。
5、ここで戦わなければ、この構造は崩せず、金権政治、官僚支配が終わらない。
(いずれこういうことは起きただろうから今起きてよかった)
6、同時に金のない政治家は企業に頼らざるを得なかった。
7、その結果、企業主体の政治が行われ労働条件が悪くなってしまった。
8、よってここで戦わなければ日本の凋落は止まらなし、生活の改善も望めない。

どうかな。VS自民の構造にせず、VS権力の実体、みたいな捕らえ方をすればいいんじゃないかな。

それにしても現実とはさも厳しいものですね。歴史を見ても自分の理想に対する民主主義の裏切りにどう立ち向かうかは大きな問題でした。変なことを言い出してしまった人もいっぱいいます。

324事変の余波

324事変は間違いなく日本の歴史に残るものであるが、現実は理想どおりに進むものでない。ここでいっている歴史は個人の生涯が点としてしか示されないほどの長い歴史から見たもの、という意味を含んでいる。

その根拠は、人間は自由を求めるということであるが、人間にとっての最高の自由とは、自らが決めた規律を自ら遂行する、ということだからだ。現在の国家は憲法を見れば明らかなように、日本人が自ら決めたものではない、いくら優れたものを与えられても、それを自分で作れなければ改造もできないのであり、真の意味で自分のものではない。

324事変についての多くの感想は、小沢氏を支持するものは匿名で書かれたが、上のような自由を求める内容を含んでいる。なぜ匿名でなければならないか、そのひとつの理由は上で書いたように、短期の物語ではないからであり、それゆえ自分の生涯をかけなければならないものだからであり、そんな勇気を個人に求めるのは無理な要求である。もうひとつの理由は、日本人は日本を自分のものと感じていないからであるが、それは実名で書いている人にとっては、自分の理想を素直に表現できない、ということからよくわかるだろう。実名で書けるということは、批判の形をとるか、国や学問の機械的解釈によって守られるかのものだからであり、今回の事件はそれを越えるものだからだ。もちろん匿名で書くということは、個人の憎しみや感情の直接的な表出も許すものでもあるが。

共産党の議員までが、彼らは自らを「確かな野党」などと位置付けているが、今回のことに触れ、”法律の根本精神を捻じ曲げる”として小沢氏を批判した。彼らは理想が高すぎるなどということもできるが、高すぎる理想などは現実と無関係である、階段は一段づつ上るから上へいけるのであり、それが高すぎればただの壁にしかならない、彼らは現実を放棄したと見なされても仕方がないのである。

憲法について書いたので、一応書いておくが、この憲法は日本にはおろかどの国に対してもできすぎたものであってとても弄繰り回せるものではない、教育基本法に「愛国心」を乗せようとするようなルソーすら驚かすほどの人間ならなおさらだ。子供に精密すぎるおもちゃを与えると壊してしまうように、今の日本人が下手に憲法をいじると壊してしまう。今はこの憲法がどのようにできているのか分析し、同じものを自分達で作れるようにする時期だろう。この憲法ができて、60年以上がたち、多くの人間はこの憲法とともに自らを作り上げた。よってこれを破棄してしまうことは自分自身を破棄することと同義なので当然これもありえない。

324事変

2009年3月24日、民主党の小沢一郎代表の秘書が起訴された。小沢一郎は代表を辞任しない決断をした。

折りしも数日前に、日本の成長率が先進国中最低水準であることがIMFから発表され、それをうけてか政府は各方面の専門家との会合を持ち、それを一般公開した。

そこで見られた光景は、希望を与えるどころか失望や抵抗すら許さないような内容であった。総理の頭の中には素朴で直接的な光景しかなく、政治家という職業に期待される思想的なものは何も含んでいない。このことは次のことを予感させる。国の舵取りは政府によって行われるものでなく、もっと生々しい直接的な力、強制力を持つ暴力、あるいは、欲望を満たすカネ、によって行われていることを。今や自民党は歴史的視点で見れば政治の舞台のすみっこに追いやられてしまったのであり、用意された紙芝居を機械的に演じるのみなのだ。

人間は自らを拘束するものの存在を知らなければならない。今や民主党が敵対するものはこの存在であり、この対決の前では既存の法律、既存の使い古された批判、直接的で無内容な形式主義では役に立たたない。