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ヘーゲル「小論理学」感想文 1

この本はすごく難しい。難しさがレベルが普通の難しさと違うので理解するのがすごく大変。しかし前例もある。スピノザのエチカと同じような構想になっている。エチカでは自己原因=神=実態として、そのあり方の論考だが、じつは知性というのを持ち出して、その居場所が最初はよくわからなくなっている。論理学では知性が出てこない。ここが読み方を難しくしている。

ギリシアの自然哲学などは、知性の在り処とその対象はとても解りやすい。知性は人間にあり対象は外の自然だ。こういう知性と対象の関係が論理学では全然見えないために、一体何が何を見ているのかがわからない。

結論を言えば、論理学自体が神であって、そして自己原因であって、この書物は論理学が論理学を知る過程として書かれていると思われる。知性自身が知性を知るストーリのような展開になっている。
「有」から「概念」展開のストーリーとなっている。こんな書き方で合理的理解などは出来るわけはないので注意して読まなければならないがそれでもよくわからないところがたくさんある。

はじめに「有」がある。しかしそれは全く無規定なものなので「無」と同じである。そしてこの移行の中で、あるいは移行自体を「成」と捉え、「定有」へと固定される。しかしこの定有から、「質」が生ずる点があまり書かれていない。もちろん有、無、成などすでに区別できるものをもってはいる。しかし定有が質になると、それが「或るもの」や「他のもの」になってしまう。ここへの移行がいきなり行われてしまう。

定有はまだ、1つしかないはずだし、1とう概念自体があとに出てくる。とすればこの或るものと他のものというのは1つの定有に対しての認識なのか、複数の定有にたいするものなのか定かでない。有と無の移行のような動きがどうして定有で起こりえるのかの記述がない。

そしていずれにしろここから次のように進む。或るものはそれ自身他のものなので、その移行の中で自分自身と出合い、これが「向自有」になる。ここでも知性の場所が問題になる。在るものが自分に出会うなら知性自身が在るものであるはずである。それがどうして他のものでありえたのか。

ヘーゲルの哲学で重要な概念は、弁証法でも止揚でもなく「それ自身」という考え方である。論理学のこの部分に、そのはじまりの記述が見て取れるからここの理解はとても大事だと思うが、よくわからない。

学問における数学の利用とは

日本の学問は、というより世界のそれは、アメリカの影響からかすっかり分析的になってしまっている。数学が大活躍する。数学をより多く使っているほど学問として価値があるかのように振舞っている。

数学を使うには、現象を量として把握しなければならない。しかし量として把握したときにその質は固定される。量がいくら変化しても、その質は元の質もままである、という前提ですべてが進む。しかし水がその温度とともに氷になったり、期待になったりするように、本来、量の変化は質の変化を伴うものである。

経済学には色々な弱点があるが、その一つはこれである。社会を量として質を固定し、量の変化だけをみて現象を見る。その質の変化から様々なものが生じても、それは二次的なものであり、それはそれで考えればいい、と考えるのである。

とはいえ、じゃー物理学は駄目なのかといえばもちろんそうではない。物理学のような人間を扱わない学問であるほど数学は活躍する。しかしその物理ですら様々な局面で限界に突き当たる。本来こういった限界に突き当たったときは、自らを振り返り、その前提を振り返るべきなのだが、現在の学問はそういったことを頑なに拒否し、オカルト的なことを主張して平気な顔をしているのである。

経済学はそのはじめにおいては、数学などはほとんど使われていなかったし、アダムスミスは人間のあり方を最後まで考えていた。最近ではいきなりY=なんとかとかいきなり意味不明の式を見せられる。経済学徒はしばしば数学を嫌うが、これはそんな数式で経済などわかるわけがない、という直感を含んでいて、その直感は正しいのである。ソースは「小論理学」。