コードギアスというアニメが面白かったので感想文。

コードギアスという名前をはじめて聞いたときは見る気がしなかった。その名前からして遊戯王的な雰囲気を感じていたし、少しだけ見たときには、なんか目から鳥みたいなのが飛んで相手に言うことをきかせてるシーンで、しかもキャラデザが腐女子的だったために見る気にならなかった。しかし最近になってやたらと噂になっているので見てみた。見てみて驚いた。勝手な第一印象で評価しちゃいけないなとつくづく思った。

このアニメはいろいろな側面からの感想がかけると思う。

以前のアニメからの継承としてのコードギアス

すぐに思いつくのはエヴァンゲリオンを超えるための設定であること。主人公ルルーシュのパパとママであるシャルルとマリアンヌはエヴァの人類保管計画みたいなことをやろうとしている。エヴァの場合は最後にシンジとアスカだけの世界みたいになってて、そこから先の世界は苦痛に満ち溢れた世界みたいに描かれる。ルルーシュはパパとママのやろうとしていることを否定しぶっ壊す。その理由は「明日を求めた」から。

「沈黙の艦隊」という漫画があった。自分の記憶が確かなら、この漫画の最後はシュナイゼルがダモクレスでやろうとしていたことだ。つまり、戦争を行うすべての国に大量破壊兵器を撃ち込むというもの。ルルーシュは、こういったやり方も「明日を求めて」否定する。

哲学的側面

ヘーゲル批判としてのルルーシュ

ではルルーシュのいう「明日」とはなにか。ルルーシュはシュナイゼルのやり方を「今日(現在)で世界を固定する」という。これは一つの論理的思考のみで、世界を解釈し、それ以外の考え方を認めないということだろう。これは今日的問題でもある。理性というものは常に優れたものであり、理性的であることが人間的である、この考えは西洋哲学の多くがとってきた立場で、ヘーゲルなどはその頂点にいる。経済でいえば、経済学というのは人間を幸福にするための道具である、すくなくとも不幸にするための道具ではない、と考えられている。もっと広くいえば、学問とはそういうものだ、ということができる。ルルーシュのシュナイゼルへの批判は、大きく言えばこういった学問の捕らえ方への批判と言うことができる。理性などでは、学問などでは、人々は幸福を得られない。すくなくともそれを絶対視する限り。人々の幸福はつねにそこから抜け出る力によって獲得するものだ。これがルルーシュの世界観であり、現在の世界、すなわち学問至上主義によって覆われた世界への根底からの批判となる。

ニーチェ批判としてのルルーシュ

シャルルの考えは、最初の方ではニーチェを思わせる内容になっている。キリスト教的倫理観を否定し、力による支配を訴える。しかしそれは「嘘のない世界」を作るためのもので、それは人類の無意識を融合することにより得られる。このアニメでは神=集合無意識となっている。これはユングやフロイトの話になる。

ニーチェは「力への意思」を説き、理性による支配を否定した。しかし力の世界でどのようなものが美しいものなのか、といった問いには答えていないように思う。よってシャルルのように弱肉強食こそ真理であるなどと言い出すやつが出てくる。それに対してルルーシュは「撃っていいのは打たれる覚悟があるやつだけだ」という美意識を提示する。

嘘とはなにか?嘘はいけないと言われる。しかし何かを否定する際、その何かはすでに真実ではないもの、すなわち嘘になる。嘘はいけない、ということは、何かを否定することはよくないこととなり、つまり世界は永遠にありのままということになる。シャルルはこの世界をナナリーもユフィーも望んだ「優しい世界」といい、ルルーシュによって「自分に優しい世界」であるとして否定される。

ルルーシュの価値観

このアニメのレビューで「ルルーシュは平和をつくった」見たいに言われるときがある。しかしルルーシュは「平和」と言う言葉を使ってないと思う。その上で彼がやりたかったこと、かれの望む世界を記述するとどうなるか。またそれを否定する根拠は存在しうるか?しかし記述することは非常に難しい、なにかを記述したとたんにそれは論理になり、理性的な思考になる。これは前述のようにルルーシュが否定したことだからだ。しかし人間である以上、言葉や理性を全否定することもできない。こういった矛盾と常に向き合うこと、これがルルーシュの価値観であり、リアルな現実にとっても重要な提言となっている。

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