自民党が憲法案を修正も撤回もしない(1)

自民党憲法案については様々な観点から批判され、そしてその内容ゆえにそれらの批判はほぼ正しいのだから自民党は修正や撤回をするかと思っていたのに一向にしないしそれらへの反論にも消極的で国民を如何に騙すかのような態度をとっている。非常に残念だ。国民国家であるからには憲法の議論は国民的であるのは当然なのだから批判には真摯に答え修正してほしい。しかし現状内閣の支持率は高くこの憲法案が本当に憲法になってしまう恐怖もあるのでそうなる前に自分なりの批判もしておこうと思う。対象は2冊、一つは憲法案そのものともう一つはそれとともに公開している「Q&A」だ。

Q&Aから

現行憲法は、連合国軍の占領下において、同司令部が指示した草案を基に、その了解
の範囲において制定されたものです。日本国の主権が制限された中で制定された憲法に
は、国民の自由な意思が反映されていないと考えます。そして、実際の規定においても、
自衛権の否定ともとられかねない9 条の規定など、多くの問題を有しています。

歴史はどこで区切るかによってどうとでも評価できる。いきなり占領下から始めれば無垢な日本に悪事をつくしたアメリカという印象をもつことを想定できる。先の戦争の反省は安倍談話で出しており、ポツダム宣言も受諾している。その反省に立って憲法を考えないならば戦前への交代とみられても仕方がない。

戦前からみればあの戦争を起こしたのは日本であって、その結果ポツダム宣言を受け入れたのも日本なのだから主権が制限されるのは自業自得である。そうした業を負いつつもそこから逃げることなくこの事実と辛抱強く付き合い知性でもっで乗り越えるのでなければ新しい憲法にはふさわしくない。

9条の細かい話はおいて、この条項ができたのかといえばこれも過去とのつながりで理解しないとならない。軍閥政権の下で力でもって物事を解決しようとしたその結果の敗戦であり、そうした体制の雰囲気が残る中での9条なのだ。それならば9条を改正するにあたって過去の乗り越えはどうしても必要である。安倍談話によってそれはなされたはずなのにこういう書き方しかできないのはまだそれが浸透してない証拠であり、憲法改正の時期は早いといわなければならない。

平成22 年に発表した党の「綱領」においても、「日本らしい日本の姿を示し、世界に
貢献できる新憲法の制定を目指す」としています。諸外国では、現実とのかい離が生じ
れば憲法を改正しています。

憲法が国の形を示し、それが世界に通用するものにすべきだという理想は正しい。そうであるならば他国の理念にもそれが優れたのもあるならば、それを取り込んでいくということも正しいはずである。自民の憲法案には前者しかない。自民党には何もかも自分たちでやらなければ価値がないと考えているところがあり、もしそういうことを言うなら漢字だってなんだってダメになるのだが、他のものが優れているならそれを取り込もうという意思がない。これは一般的に中二病と言われるもので世界のすべてを自分の思考で解釈してやろうというものだ。そんな中学生もいつしか社会のルールを知り国家のルールを知りその中で自己の自由を実現する。国家も同じである。自民党はまず自らの憲法案を誇るのだったらそれをどう良くしたのか、その違いを、それが乗り越えたものをしっかり説明すべきだ。

また、前文は、いわば憲法の「顔」として、その基本原理を簡潔に述べるべきもので
す。現行憲法の前文には、憲法の三大原則のうち「主権在民」と「平和主義」はありま
すが、「基本的人権の尊重」はありません。

現憲法97条を読めばわかるように人権と自由の関係は記述してあり、人権とは自由の成果なのだから、そして憲法は成果に安住するだけではなくさらなる成果の土台となるべきものなのだから前文に書くのは人権ではなく自由が適当だ。ちなみに自民党案では97条を削除した。恐るべき後退と言わなければならない。

特に問題なのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生
存を保持しようと決意した」という部分です。これは、ユートピア的発想による自衛権
の放棄にほかなりません。

暴力を世界からなくすというのは人類が掲げるべき理想であって、それをユートピアと呼ぶのは視野が狭い、目指すものが低い、とても世界に貢献できる憲法を記述する資格などない、と言わなければならない。平和を愛する諸国民の正義とは例えば国連である。日本はアメリカを信頼している。これをユートピアと呼ぶならば日本一国で他の全世界と戦える武力を持つことを宣言するに等しい。

あまりにひどい出来で書いていたらイライラしてきた。ここまでにして、また続きを書こう。

党首討論について

経済

国会の党首討論を聞いていたが、やはり経済に関しては政府も野党も十分な認識をしているとは思えなかった。安倍(以下敬称略)はリフレ派の取り巻きに影響されてだろうが雇用だけをことさら強調しマクロ的だなどといって自賛していた。データを見れば2012と2015を比べてみると大体以下のようになる。

実質GDP:1.9%上昇
就業者数:2.2%上昇
消費:調べてないが大きく下落

つまり雇用が増えた分のGDPすら上昇していない。だいたい増えている雇用は介護であって、今後介護の需要が大きくなることを考慮すればこの領域は如何に人を使わずに需要を実現するかが課題であるはずだし、なにより消費が大きく下落している。GDPは生産の指標であるから、消費は海外であってもいい。アベノミクスは海外のために日本人に生産させたのである。もちろん海外のために日本人が生産することそれ自体はもんだいない、しかしそれはまず日本人が第一であって、日本人の消費を減らしてまで海外に貢献する道義はない。

税収増も結局この中のおこぼれから出てきたものなのだから、それならこんなことをせず初めから税でとったほうが効率がいい。しかし現在リフレ政策が一周してわかったことは、リフレをやれば税収が増えるがGDPは増えない(リフレをやめた2016のGDPは上がっている)ということであり、リフレをやめればGDPは増えないが税収が減るということである。となれば答えは簡単のはずで金持ちから取るということにしかならない。それが国際環境的に一国では無理というなら国際ルールとして規定する努力をすべきだ。

カジノ法案

カジノも発想は同じである。海外の金持ちのために日本人を働かそうというのである。こういうことになれば日本人同士の物質的関係が希薄化することであり、それは人間の幸福度や実存にかかってくる。簡単に言えば生きがいを感じなくなるのだ。カジノの問題でも依存症やら犯罪ばかりが注目されているが、それは国民の水準によって乗り越え可能であり、本来的には誰でもカジノを運営できるべきだし誰でも楽しめるべきなのだから、それを問題にするならばなぜ依存症や犯罪に結びついてしまうのかを考慮しなければならない。安倍がカジノを成長戦略と視点は表象的な数字しかみておらず、経済は国民の精神を構成する重要な要素だということをあまりに軽く見ている。がそれは取り巻きの経済学者のせいでもあるだろうから少なくとも経済に関しては現在過渡期であり、がくもんそのものも未成熟性もあって画一的な見方は危険だということを知るべきで、意見の違う人間の話を総体的に判断して政策を決定すべきだ。安倍はことさら責任を強調するがその意思が見えないのは自分で判断していないからであり本当に責任をとりたいなら自ら根拠を理念に照らして判断するという経験を積むべきだ。

南スーダン

共産党は憲法を理由に撤退を求めていたが、この問題はそもそも国連に十分な力がないことにある。国家を成り立たせるにはいくつかのレベルが必要であって南スーダンが今どの段階にあるのかという問題意識がない。アメリカは常に単純に考えて3の水準にしかないところに10の要求を実現できると信じ国際的に失敗を繰り返し、その反動として国際社会から身を引くとか言う言説も表れたりするのだ。今の国連も同じようなところがあって本来のPKOの枠組みを超えて頑張っているが、このままだといつまでも居続けるか、いなくなったらまた内戦になって無意味だったということになりかねない。

もし南スーダンがこの水準ならば選択肢は2つで、一つは無視するか、もう一つは国連がもっと権限をもって実効支配するかだ。一国でやれば侵略になってしまうのだから。

読めなかった英語 no two people would prefer to partner with each other than their current match,

ソース:http://www.economist.com/blogs/freeexchange/2016/03/matchmaker-heaven

The outcome is ‘stable’;no two people would prefer to partner with each other than their current match,otherwise the algorithm would already have paired them.

two peopleというのは全体から選んだ任意の男女二人のこと
partnerは動詞、each etherはtwo peopleの相手方

訳は
どの男女二人を考えても今の相手よりよい相手となるような二人組みは存在しない。

オワコンでもなかった70年談話

70年談話、さすがに予想とは全然違うものになった。

一番強く出たのはこの視点で、不戦条約を境に戦争違法化の時代が来たのにもかかわらず、日本は力の行使、すなわち侵略を行ってしまい、それが間違いであったことを認めている。1928で歴史を区切るのは東京裁判と同じだから、安倍内閣が始まってからいろいろ出てきて安倍自身も賛同的な立場をとっていた歴史修正主義は断ち切られた形になる。

だが、前半の植民地支配はあたかも欧州の悪口のように書かれていて、日本も台湾朝鮮を植民地化したことには触れていないのは公平でない。日露戦争がアジアを勇気づけたと書くが、日本は政府としては日仏協約、4か国条約などにより常に欧州列強と足並みをそろえてきたし、その期待を今後大きく裏切るのだから一面的記述だろう。

連合国の第二次大戦の反省として出たものの一つがIMFだが、これはブロック経済を否定し自由貿易を確保するものだ。ここで談話はブロック経済の下でそれに対抗する措置をとれなかったことを戦争の原因にしている。足元の政治で見ればこれはTPP推進の論拠であり、アメリカの体制であり、歴代自民党の体制でもあり、ネオリベの体制でもある。ここで注意すべきはなぜブロック経済になってしまったのかという視点で、これは談話では述べられていないが、もっとも広く言えば自由貿易だけでは国内が疲弊していきいつかは耐えられなくなるからだ、もちろんあの時期のブロック経済は特殊事情もあるので自分でも整理できていないが、今の日本を見ても日本人はどんどん貧しくなっているのである。ここで今の日本がこの貧困化を阻止できるような経済政策をもっているかといえばNOというしかないのだから、自由貿易と貧困がともに進むことになるだろう。

連合国の反省に2つめは人権の強化である。貧困を放置すると国が荒れて戦争になるのでそれを防ごうという目的、戦争という視点で見ればそう言える。これも今の日本が十分にできているかとなればNOとしか言えない。人権委員会に何か言われても積極的対策をしようという意思は感じられないし、アメリカの人身売買白書でも先進国中唯一2番目のランクだし、慰安婦問題では強制や性奴隷といった言葉を低い意識でしか理解できないし、政治家は積極的に人権や自由という言葉を使うことはない。日本は戦争を起こした立場上人権を強く意識しなければならないし、今現在の日本の人権意識は非常に低いということも意識しないとならない。

謝罪を続けるかどうかの問題。談話を読んで善意に解すれば談話で示された歴史を否定することなく真理として受け入れる基盤ができたならもはや謝罪は同じことの繰り返しにしかならないのでいつかは終わるだろう。だがこの一文だけを切り取ってもはや謝罪する必要がないなどと強調して歴史認識をおろそかにすれば謝罪は終わらないだろう。

この談話で消えた視点は植民地支配への謝罪である。欧州のも含めてこれを学問的論理的に間違いであったというのは難しいはずで、それは経済的に進んだ国が遅れた国を取り込んでいくというのはそれが認められないと地球規模での物質的進化を否定することになってしまうからだ。とはいえ謝罪というのはどんなレベルで行ってもよく今回の談話では昨今の韓国との関係悪化が前面に出すぎているといえる。日韓関係はそれ自体で特殊なものだからこれについても今後双方が理解を進める必要があるだろう。

最後に当時の政府と臣民の関係。間違った判断により苦しい思いをしたのは日本人も同じだ。当時の民主主義や議会はまだ十分権力を持っていないので、国民も責任者だといって切り捨てることはできない。満州事変の真実を明かさなかったこと大本営が都合のいい発表ばかりしたこと、これらは謝罪したっていい。今でも経済の話では十分にできているとはいいがたいが、国民を信用して問題にはともに取り組む姿勢が民主主義のはずだ。

オワコンの70年談話

政治的妥協

70年談話は侵略を認めたくない安倍内閣とそれに反する内外の圧力との妥協的産物になりそうだ。政治は妥協とも言われるがそれは国内において政党間や利害関係者の駆け引きで使われるべき言葉で、この場合両者の上には国家があるのだから、その妥協を決めた第三の未知のものさしは国家にあるということで理解できる。しかし70年談話は国家の意思表明であって、外に対しても表明するものなのだから妥協という形式は適当でないし、それは国家の分裂を現したものになった。

反省

反省という言葉を使いそれを外に対してはremorseと訳して自責を示し内に対してはreflectionの意味として過去を顧みているに過ぎないとしているという話も聞かれる。しかし安倍氏の場合その反省の中身が何もない言葉だけの反省すぎず、反省などしていない。内閣発足から2年以上経つが言動の大きな変化はないし、反省している様子は見えない。

一般に認識の段階は存在から始まり、反省、根拠、主観化、客観化、理念化と進むものだが、安倍内閣の場合上述のように反省もしていないので、過去のことに対して問題が存在するという認識しか持っていない。外に対して発表するものなら理念として出すものだがそれがまったくできていないと言っていい。

アメリカ合衆国

合衆国はアジア太平洋地域をもはや理念的段階の問題というより、それを捨て去って経済的覇権確立の領域としてみており、日本が入るTPPは政治的理念なく各国の競争という側面だけになり企業だけが利潤を追求し、日本の衰退を早める危険がある。オバマは国内に対してはネオリベ的政策を嫌い、NAFTAに対しても不賛同を示していたが、アジア太平洋はもはや彼の理念を追求できる領域ではなく経済と軍事だけの領域になっている。

AIIB

このようなアメリカの見方、それはIMFにも受け継がれ、それが中国にとっても付け入る隙を与えている。AIIBの未来は不確定だが可能性としては充分にある。アベノミクスに対しても充分な反省が行われないまま政府は国民実感と違う「景気回復」を宣言しているような欺瞞を続けているとTPPでもし国がおかしくなってもその認識に時間がかかり気づいたときには逆転不能な状態まで陥りアジアで唯一の衰退国になりかねない。安部内閣は反省というのなら国民が納得できる反省を示すべきだ。

民主党も追随し、共産党も無視を決め込んだ八紘一宇

八紘一宇は低い価値観

八紘一宇はどんなに頑張っても家族観の延長でしかない。恣意的な範囲を一つ屋根の下の家族と措定すれば、それ以外の存在は邪魔なものであり、気に食わないものは排除する価値観である。

八紘一宇は間違った価値観ではなく、低い価値観だということ。

国家にとって大切な価値観は自由や人権

価値観はあれかこれかによって定められるものではなく、階層的に体系化しているものである。家族の上には社会があり、そこでつくられた価値観は人格や所有権である。人格とは人は自由な精神を持ちそれぞれの要求を持つことを認めることであり、所有権は人格の延長として物も人がそれに働きかけたなら人格の一部のように扱うことである。家族感では人格も所有権も中途半端にしか実現されない。家族の中では共有が基本だ。

社会の上に国家がある。社会の自由があってもそのまま放置すれば独り勝ちになってしまう。そこで平等な立場での自由を確保する必要がある。それが国家である。民主主義や人権、独占の禁止が近代国家の法だ。

グローバル資本主義の光と影

グローバルかどうかにかかわらず資本主義には欠点がある。この欠点を補うのが国家であり、グローバルであるなら、国際社会である。

歴史的には1920年代から経済がおかしくなる。これはグローバルでおこり、ブロック経済化し、その結果経済はさらに悪くなった。その結果の戦争であり、その結果の人権や国連憲章やIMFである。

三原氏の認識には過去の反省が全くなくユートピア的な思考しかない。まずはそのことを自覚し八紘一宇などと軽々しく持ち出さないことだ。

右翼や保守

八紘一宇という言葉をいくら肯定的に解釈しようとしても、当時の人間も肯定的に使ったのだから言い訳にはならない。当時の人間の何が間違っていたのかを明らかにしその上で、この言葉を発展的に使うべきだ。そうでなければ日本は同じ惨禍を味わうしかない。

追随した民主党

民主党の綱領を読めばそれがわかる。
http://www.dpj.or.jp/article/principles

我が党は、「生活者」「納税者」「消費者」「働く者」の立場に立つ。

意味をなさない。「生活者」とは国民と同義で書く必要がない。「納税者」は子供を対象にしないという意味しかない。「消費者」も同じ。「働く者」も大体同じだがこれは株主や経営者を排除しているのかもしれない。消費者と労働者は対立するかもしれないし、経営者や株主がいなければ資本主義は回らない。立場に立つというあいまいな言い方では恣意的になんでも言えることになる。綱領は国家の立場に立ち、社会をどうとらえどのように自由を実現するのかを書かなければ何を目指しているのかわからない。

1.共生社会をつくる
官が独占してきた「公共」をそれぞれの主体に還す。
外交の基軸である日米同盟を深化させ

民主党に足りないのは社会と国家の違いを理解できてないことである。上にも書いた価値観の重層的関係を理解してないこと、だから一部の議員が八紘一宇を国の大切な価値観ということに「違和感なし」と言ってしまう。

物事を本質的に理解するとは全体の中でそれを位置づけ、他との関係を記述できることである。馬淵氏は他の現存する価値観について何も言ってないのだから本質などとはいえない。歴史の中から好きなものを選んでいるだけにしかすぎない。

無視を決め込んだ共産党

共産党が無視した理由は、グローバル資本主義を批判した文脈だったからか、あるいはポピュリズム化して皇室にまつわることを批判するのが怖くなったからか、あるいは唯物論だけで考えていて言葉に意味がないと考えているか、いずれかだろう。

共産主義は社会の原理である資本主義を批判はできても、その上の国家をどうあつかえばいいのかがわからない。マルクスは観念的すぎるし、エンゲルスは適当なこと言うし、それでレーニンも困ったし、ソ連も崩壊した。

共産党が本気で国を動かすつもりなら、いつまでも資本批判だけで満足せずに、国家観を持たなければならない。

ぐだぐだだった2014経済

マイナス成長で終わりそうな2014経済なにが起こったのか。

13年に始まったリフレ政策は異次元の緩和を行うことによりマネーを供給し、インフレ予測を上昇させ実質金利を低下させ投資や消費を促進するはずであった。

まず起こったのが株高と円安でそれによって資産効果による消費拡大や輸出企業の業績が上がった、資産構成のため住宅市場も活性化した。それが13年だった。

しかし資産効果には限界がある、というよりこれは株価上昇分だけしか反映されないものであるから無限に緩和できない以上効果は一時的だ。
輸出企業は円安を価格に転嫁することをせず、円安分が利益になったが、それだけのことでマネーの問題に過ぎない。

そしてマイナス面が2014に影響してきた。無から価値は生み出せない。資産家や輸出企業が儲けた分は一般国民の物価上昇をもたらし、これによって実質賃金は低下し消費も落ち込んだ。資産効果は一時的だがこの物価上昇は永続的に影響をもたらす。

リフレ派の主な主張は雇用改善だったが、この雇用もインフレによる生活悪化に対応したものでもあり、新産業によるものではなく、いままでの設備を人に置き換えたというもので、喜ぶべきものではない。その結果がGDPマイナスだ。

2015が始まった現在、日銀の態度は気弱になっており原油安によるデフレ圧力に対して緩和をするという意思決定ができなかった。リフレ熱はもう終わっており、出口戦略と現状復帰が今後の課題となる。

アンチリフレにもさまざまな人種がいて、ネオリベの多くもその中に含まれるので注意しないといけない。彼らは生活悪化や格差については口にしないのが特徴だからすぐわかるが、リフレがだめだったからといってネオリベならよいというものではない。現在の経済は資本主義の末期であり国家が積極的に、民間の活力ではなく、経済の、実体経済の構築をしていかなければならない

形式主義に陥った慰安婦問題

数研出版が慰安婦や強制連行の記述を削除した。ここ最近の慰安婦騒動に連動した動きで、教科書の記述が政治的影響により書き換えられると言うことは学問の自由に反する。強制という言葉は自由の反対の概念を持つものだから慎重に扱わなければならない。

日本における強制の理解は政府の発言「人さらいのように連れ去った」に見られるように、身体的に抵抗しているのを暴力的に連れ去ったと介されている。しかし強制と言う言葉はそんな狭い意味で捉えられるものではない。日本の制定法でも誘拐罪、監禁罪、強要罪などがあるがこのような狭い意味で適用される法律ではない。

もはやこの問題は歴史の問題ではなく、自由や国のあり方に関わる問題になっている。国家は国民の自由のために存在することは近代国家共通の理念であり、国家を越えた国際的な機関のそれでもある。この様な動きが日本で広がれば日本は国際社会化ら低く扱われることになるだろう。

強制と言う問題は形式的に扱ってはならないのであって、それが許されてしまえばほぼすべての強制は存在しない。なぜなら他人の肉体や精神を自由に扱う方法はないのだから。よって強制かどうかはその人に心理的選択能力、その余地がなければならないしそのことによってしか計れないし、そういう強制をなくしていくのが国家の使命のはず。

戦争当時の中国、朝鮮や東南アジアの状況もあまり知れ渡ってはいない。このような状況の中で一部の歴史学者や右翼言論人に影響され、政府がこういう方向に向かったことは残念だ。本来であればあの戦争がどういうものであったのかを示し、それをよく振り返って、二度と同じことをしないために何が問題だったのかを認識し今後はこういうことが起きないということを国民や世界に確信させるよう努力しなければならないはずだ。

政府は海外宣伝の予算を増やし、日本の立場を説明すると言っているがこのような概念的な違いは決定的な違いだから理解されることはないだろう。

集団的自衛権、左派の力のなさ

問題の背景

  1. 資本主義の衰退
  2. 中国の台頭
  3. アメリカ流の安全保障論
  4. ロシアの軍国化

資本主義はそれだけでは永遠に成長できるシステムではない。衰退期をどう克服するのかが国際的な課題だ。アメリカ民主党はニューディールやオバマ政権を見てもわかるようにこの領域でもっとも進んでいる。日本、先の大戦はこれを克服することができず戦争に突入し、国家破滅の危機にまで至った。

中国は市場主義を導入し成長期を謳歌している、それにより軍事費も大きくなり日本との軍事バランスが崩れた。

アメリカの安全保障論は武力均衡や核抑止というように軍事力のバランスを保つことが戦争を防ぐという考え方に基づいている。しかし一方では国連があり、戦争は自衛戦争と制裁戦争しかできないことになっており、侵略戦争を始めた国は国連軍が対処に当たる。

しかし国連軍は5大国に拒否権があるため、その中の一国ロシアの暴走を止める力はないし、アメリカが支援するイスラエルもそうだ。

集団的自衛権の問題が日本でうまくまとまらないのは、日本には国家の理念がないからだ。憲法には書いてある。しかしその理念とは逆向きの理念を持っているのが自民党だ。

安全保障論はいわば力の論理であって、政治の論理とは別に存在する。アメリカは下級理論に安全保障論、上級理論に自由主義がある。資本主義に関してはアメリカ国内では共和党はネオリベだが民主党はリベラルだが国際経済になるとどちらもネオリベになる。

日本が唯一他国と違って持っていた理念は9条だった。とはいえ不戦条約や国連憲章ですでに同じことは言われている。

このような多様な論点のあるなかでどういう立場を取ったのか。

自民党は安倍総理の進めていた戦前回帰思考を表面的にはあきらめてアメリカの安全保障論で集団的自衛権を進めた。

対する左翼陣営は戦争そのものに反対という情緒的政策から抜けきれず自衛隊の命がどうとかの話になってしまった。

安全保障論は下級理論と言ったように国の理念を問わないものだから、独裁国家であっても民主国家であっても成立する理論だ。だから問題は集団的自衛権でどういう国と組むのかということに他ならない。

安倍総理の考え方ではアメリカとは組めない。組めるとすれば政治理念ではなく経済的軍事的力という問題に過ぎない。

集団的自衛権でより安全になるというのもアメリカ的思考であって、9条を守っているということはひとつの正義であってひとつの抑止力になるが、こういうことを一顧だにせずに決めてしまった。

政治に求められているのは国際社会の流れを見据えた上での国家の理念の提示とその対決だったがどちらの陣営もその能力が不足していた。

次世代の党の綱領がひどい

https://www.facebook.com/jisedai.party/posts/677561478998045 より引用

他方で今、我々は、日本の将来に強い危機感を抱いている。国際的な大競争時代の下、国内では急速な少子高齢化が進展し、日本の国力は多くの分野で停滞・弱体化すると同時に、過疎化により地方の活力も衰えてきた。また、自分自身や自国に誇りを持つことを許さない教育、長引く不況や労働市場の硬直化等の結果、将来に希望を持てない若者が急増している。

これらの根本原因は、国家にとって重要な課題であればあるほど決断できない政府の意思決定の仕組み、すなわち憲法そのものにある。その結果、投票権を持たない将来世代にあらゆる負担と弊害が先送りされてきた。憲法上、国防に関する規定が置かれなかったことにより、国家の自立が損なわれただけではない。個人の自由には責任が伴うことが忘れ去られ、無秩序な社会が出現した。家族や地域の絆が断ち切られたことにより、政府への依存を助長し、個人の自立が損なわれた。

日本の衰退の原因を憲法の意思決定の仕組みとしている。これは国民主権であり、議会制度であり、三権分立であり、また排除規定としての人権や財産の侵害の禁止などが設けられている。憲法と書くだけではこの内のどれが衰退の原因であるかがわからない。そして戦後の日本は発展してきたのであり、そのことを無視して昨今始まった衰退だけに目を向けるのは勝手だ。

自由には責任が伴うとは、自由な意思決定による帰結で自由に含まれた考え方だ。しかしあえてこれを言う意図は別の理解による。つまり日本は自由な国なのだから国民はなにもしなくても責任がある、よって国家の命令に従え、という意図がある。

自由に伴う責任は本来、肯定的なものであってそれがなければ自由とはいえないものだ、責任を否定的にあつかう態度は自由を否定的にあつかうのと同義だ

我々は、「自立」「新保守」「次世代」の理念の下、国民の手による新しい憲法、すなわち自主憲法を創り上げる。

【自立】

次世代の党は、「自立した国家」「自立した地方」「自立した個人」を実現する。福澤諭吉のいう「一身独立して一国独立す」の精神は、今こそ全国民が想起すべきである。戦後の高度成長に酔い痴れ、会社や政府に依存する「甘えの構造」とは訣別しなければならない。中央集権・官僚支配体制とその規制に守られた既得権益を打破するとともに、衆知を集める「賢く強い政府」を実現することにより、個人が将来に希望を持てる社会システムを構築する。

原因の認識がいい加減なので、甘えだとか既得権益などが持ち出される。会社や政府と個人とは相依存しあうもので誰もこれらに無関係では生きられない。自立というが社会の中で個が自立するとはどういうことだろうか。これは国際社会のなかで一国が自立するのはどうか。勝手気ままに振舞うことではない。社会や国際社会をよく理解し、最初は義務としか感じなくともそれを全否定せずに一旦は中に没入し、その中で自らの差異を求めることにある。

既得権益として官僚が挙げられているが議員や社会的身分の高い人、金持ちは既得権益者ではないのだろうか。

【新保守】
次世代の党は、世界最古の皇室を戴く「一国一文明」とされる日本の伝統的価値や文化に立脚し、国家と個人をつなぐ社会の最小単位としての家族や地域の「絆」の再構築を支援する。世界情勢の変化にも柔軟かつ強かに対応する「温故創新」を旨とし、個人の自由と社会の秩序を調和させることを通じて、規律ある自由な社会を創る「新しい保守」の理念を実践する。他方、リベラリズムの衣を纏った社会主義思想は排除し、闘う保守を貫く。

文明や伝統の中身をどう考えるかの問題であって、皇室の存在およびその古さは政治の問題ではない。こういう考え方だと天皇の意思に従属するか、あるいは天皇を無視するかの選択に迫られる。たとえば靖国参拝問題。おそらくは天皇の意思を無視し皇室の存在だけを問題にすることになるがそこにあるのは3種の神器など物質的なものでしかない。あるいは自分に都合のよい言説を歴史の中から選び取って自らの主張に重ねるだけでしかない。

甘えを排除といいつつ絆を再構築するとはどういうことだろうか。しかの個の自立を維持したまま、概念があいまい。

自由と秩序は対立概念ではない。こう捉えることは自由を放縦としかみていない低い自由意識しか持ってないことになる。これではリベラリズムと対立するに値しない。

社会主義に対立するとはどういうことだろうか。義務教育や社会保障をやめるということだろうか。日本の衰退の原因は資本主義の本性から来るものであり、これを乗り越えるには国家によらなければならない、つまり社会主義的でなければならない。

【次世代】
次世代の党は、我々の子供や孫、まだ生まれぬ将来世代の視点に立って、戦後半世紀以上にわたって放置されてきた根本問題に真正面から取り組む。医療・年金等、社会保障制度の抜本改革は、世代間格差の是正のためにも喫緊の課題である。また、明治以来の大福帳方式(現金主義・単式簿記)を温存した財政制度を発生主義・複式簿記化することによって、合理的かつ戦略的な国家経営を実現する。

石原さんの好きな簿記議論だが、こんなことに書くことじゃない。
世代間格差の何が問題かも書かれていない。
はやりことばを書いたに過ぎないものでこんなことに書くことじゃない。

次世代の党は、次世代のための新保守政党であり、その基本政策は以下の通りである。

①国民の手による新しい憲法(自主憲法)の制定

②自立した外交及び防衛力強化による安全保障体制の確立、集団的自衛権に関する憲法解釈の適正化、全ての拉致被害者の早期救出

③財政制度の発生主義・複式簿記化による「賢く強い国家経営」への転換

④世代間格差を是正する社会保障制度の抜本改革、徹底的な少子化対策

⑤既得権益の打破(規制改革)による成長戦略と「賢く強い政府」の実現

⑥安全かつ安定的なエネルギー政策(新エネルギーの開発・原子力技術の維持)、電源多様化による脱原発依存

⑦正しい国家観と歴史観を持つ「賢く強い日本人」を育てる教育

⑧地方の自立、「自治・分権」による日本型州制度の導入

次世代の党は、日本の衰退の実感から危機感を感じて出てきたものだが、原因の認識がいい加減なので、綱領もいい加減であり、理念としては政党に値しない。

なにより日本人がこの時期危機感を抱かなければならないのは、過去の失敗を繰り返さないことにある。恐慌から貧乏人が悲惨な状況に追い込まれ、それを見過ごすことのできない右翼によって戦時体制の基盤が作られ、議会や天皇を押しのけて戦争に進んでいった。まちがった理念ではじめた戦争は長期的には負けるしかない。この反省も不十分どころかおそらくこの政党はこれらを肯定する。